アルザスからカレーは遠い。途中北フランスのラ フェレという町で一泊したがこの一泊は特筆物だった。
ホテル側の登場人物はおばあさん二人だけ、ホテルは大きいが物凄く古びていて何か出そうな雰囲気で勿論夕食は無し。
元は立派だったと思われる屋根付きガレージに車を止める時、婆さんの一人が誘導してくれてもっと端、もっと端とぎりぎりに
止めさせられたが翌朝まで隣に車が来た形跡は無かった。
食事をしに、町に出たのであるが、この町自体がフランスの常識に反していてレストランが無い。
ようやくバーみたいな所で簡単な食事のようなものにありついた。
翌朝はホテルの朝食レストランでフランス式のジュースとパンとカフェオレのみの朝食、レストランにはシェフの格好をした
40代と思われる男の白黒写真が真空管ラジオの横に飾ってあった。
それで強引に解いた謎は、『この男はどっちかの婆さんの連れ合いでこのホテルレストラン(当時)
のオーナーシェフだった人物、おそらく1960年代に亡くなり、それと同時にこのホテルの時間も止まり、
1960年代のタイムカプセルとなって以来星霜三十有余年、連綿と営業を続けて来た』。というものであるが、
どうであろうか?。

ホテルの請求書と支払いのカード控え。
24号室、バス、シャワー、トイレ付き255フラン(このホテルで一番大きな部屋だと言っていた)。
朝食、オレンジジュース付き2人前80フラン。合計335フラン。(1ユーロ=6.55957フラン)
右下のCBはフランスの一般的なクレジットカードであるカルト・ブルーのマークで、CBはICカードであるから
店の端末のスロットに差し込み、客が自分の暗証番号を入力する事で決済する。それをこのホテルでは手動のエンボスカード
として使った。しかも金額が手書きだった。
カレー
フェリーに車で乗り入れる瞬間というのは楽しいものである。まして今回は到着すれば外国であるので一層楽しい。
当然ではあるが、チケットを買う時、パスポートの提示を求められ、乗船名簿と理解してしかるべきものに氏名、車のナンバーなどを
書かされた。
乗用車1台カレー/ドーバー間1,245フラン。(25,000円位)ナポレオンもヒトラーも越えられなかったドーバー海峡を
これだけの値段で運んでくれると思うと安いものである。ちなみに帰りのドーバートンネルの汽車フェリーは110ポンドだったので
レートによるがまあ感覚的に同じくらいである。
P&O Stena Line社所属の英国船であったため、乗ってしまうとそこは英国で、通貨は英国ポンドである。
船名はPRIDE OF DOVER号というらしい。

売店で英国道路地図帳を買う。
随分と泥縄式と思われるであろうが、フランスの田舎では事前に大縮尺の英国全土地図帳が入手できなかったのである。
英国はそんなに大きな国ではないとはいえ、今回のドライブでは相当の枚数の大縮尺地図が必要で、それは地図帳になっていないと困る。
買った地図はCOLLINSの3miles to 1inchの全138ページで、これは19万分の1にあたる。
しかし、感覚としてミシュランの20万分の1に比べると
旅行グッズとして洗練されておらず、不慣れなせいもあって使い易くは無かった。

売店で買ったサンドイッチのバーコードラベル。
この綺麗なラベルは、銀行の番号札やスーパーのレシートに使われるのと同類の感熱紙である。一番下の値段とバーコード以外は感熱紙に別途カラー印刷して
作ってある。そのベースとなっている感熱紙は印刷対応のラベル・グレードの高級品である。レシートやファックス用とは似て非なるもので、
このフルカラー印刷が可能で、耐久性のある感熱紙の開発チームのリーダーは後に紫綬褒章を受章した。
レシート用感熱紙にカラー印刷できるというものではない。レシートやファックス用は印刷インキの溶剤で黒く発色してしまう。
そして英国の食品スーパーのバーコードラベルは世界一綺麗である。
私はこの業界に非常に詳しいのであるが、その私が断言するのだから間違いない。
ドーバーの白亜の崖。(White Cliff)

こうした景色が見られるのもフェリーの楽しみである。トンネルではこうはいかない。この日は天気も良く、
絶好のドーバー海峡横断日和であった。

写真右は、すれ違いのカレー行きフェリー。SEAFRANCE号という船名からこれはフランス船であろう。

フェリーを降りるとすぐパスポートコントロールがある。右ハンドル車、左ハンドル車それぞれの窓口があるので対応している方に車ごと並ぶ。
大陸の道路上国境のパスコン同様乗っている全員のパスポートを係官に差し出す。大陸の国の場合、余程怪しげでない限り黙って
通してくれるのであるが
ここは英国なのでそうは行かず、入国の目的、どのくらいの滞在予定か、どこに行くのかなど聞かれる。OKとなると査証スタンプを
押してくれて入国を許され、英国の道路へ出るのであるが、注意を要するのは大陸と反対で車は左であることである。
車は左ハンドルな上、周りは外人ばかりの外国であるので、外国では右側ドライブという習性に従って右を走るのでないか、という
恐怖でかなり緊張する。パスコンのオフィサーも左側をドライブするようにと一言念を押してくれる。

英国ドライブ初めての駐車。
ドーバーから北上、なんとか逆走はせずカンタベリーに到着した。
交差点や分岐を左小回りで回るのは恐怖であること、塀や生垣の圧迫感が凄いこと等を感ずる。
また、この時まででは感じなかったが、この後大陸とは逆回りのロータリー(ラウンドアバウト)には戸惑った。
逆回りと云うこともさることながら、大陸ではロータリーに適宜入って中で車線を変えて出たい出口に行って良いのであるが、
英国では入る時何処から出るか決めて其処にいたる車線を選択して入らなければならないように感じた。
従って大陸国のロータリーでは中で車線を自分でも変えるし、変えたい車に対する用心をしていて車線を譲ったりよけたりするが、
英国ではロータリー内で車線を変えたいと云う意志表示は無視され、無理にやるとクラクションで脅されたりする。
ロータリーをタイヤを鳴らして回る奴もいる。全然アバウトでは無いのである。

その意味も何も判らないのだけれど、何やらパレードが始まりまして。

イギリス国教総本山カンタベリー大聖堂
正門とカテドラル本堂
大聖堂の裏側。

なにやら廃墟もありまして、調べると奥が深そう。
カンタベリーはローマの本格的ブリテン島進攻の際の兵站集結地であった。最大4万人のローマ軍が集結した事もあったという。これらももしかすると
そのゆかりのものかもしれない。ここから程近いロンドンにはローマの遺跡が多数ある。
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今夜の宿を求めて海峡沿いに南下する。Rye(ライ)辺りで泊れないかと漠然と考えていたが、日曜日の夕方にもかかわらず、
ライに向かう車で大渋滞だった上、
ライの町の中も、車を停車させる事自体がとんでもないという大混雑。
ライを抜けても海岸に近い町/村の混雑は解消されないので、ままよと内陸に入る。
Herstmonceau(ハーストモンソウ)という村の近くで、ベスト・ウェスタンの看板を見つけて交渉、朝晩飯付き空き室有りで即決する。
周りにあまり家がない場所にあるホテルで周辺にはイングランドの野原が広がっている。

ホテルの周辺を散歩してみる。英国はロンドン始め都市/町しか知らないのでイングランドの田舎道を歩いてみるというのは初めてである。

1960年代初めに発表され、その後映画化もされたネビル・シュートと云う作家による『渚にて』は人類全滅物の嚆矢とも言うべき小説である。
舞台はオーストラリア(既に北半球は全滅している)であるが、この中で、ヒロインのモイラ(ブランデーを常用する愛すべきアルコール中毒患者)
の母デビッドソン夫人が、少女時代に旅したというイングランドの田園の美しさアメリカ海軍潜水艦スコーピオンの艦長タワーズ中佐に語り
聞かせる場面がある。高校時代この小説を読んだ田舎少年は、イングランドの田園風景というものは家の周に溢れかえっている田園風景とどう違うのか、
という一種の憧れを持っていた。
この小説の人類滅亡の原因は核戦争である。偶発で始まった核戦争の初期にお互いの首都を核攻撃しあった結果、戦争終結のための政治家や高位の
軍人がいなくなり、現場指揮官の判断で更に無茶苦茶に核ミサイルを撃ち合った結果ということになっている。起こりそうな話で怖い。
ハートフィールド
翌日。イングランドの田舎をドライブして『小熊のプー』の舞台の村、ハートフィールドへ向かう。経験的にこういう場所は事前に
『さあぁ、小熊のプーだ、カンガやイーヨーやクリストファー・ロビンが遊んだところだあぁ』とテンションを上げて行かないと現場ではテンションの
上げようが無い事があるのは判っていたが、ここは想像を絶する場所であった。
閑散とした村にみやげ物を売る店が一軒あるのみ、観光地としての基本である表示や看板も殆ど無い。ナショナル・トラストの仕業であろうか、
プーとロビンとその仲間が遊んだ森や野原そのままに保とうとしているようであり、それは見事に成功していた。


例の棒投げの橋を探して右往左往、初め徒歩で探そうとしたのであるが、どうも駄目だと悟り、車で探す。やっとこさ見つけた棒投げの橋は
畑の中にある何の変哲も無い木の橋で下にはどろんとした水がゆっくり流れていた。
棒投げの橋であることは、下流側に夥しい数の棒切れが
引っかかっていることから判ったが、ハートフィールドというのは地味と言ってからひとしきり地味な観光地であった。

ソールズベリー
概ねストーンヘンジの方向にドライブしてソールズベリー近くのBBに宿を決める。宿を決め、夕食がてらソールズベリー大聖堂に行ってみる。
尖塔は英国で一番高いのだという(高さ120メートル)。


朝食は我々を入れて3組の泊り客が同じテーブルであった。
年金生活者であるというフランス人男は、英国を自転車で放浪して釣りをする
のが趣味で、このBBにも何度も滞在している常連との事で、英語を話した。なんでわざわざ釣りをしにフランスから?、
と聞いたら釣りならフランスより英国である、という答えだった。
ま、ここはアイザック・ウオルトンの国だし、ウオルトンの縄張りもこの辺ではなかったかと思う。
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ストーンヘンジ
美術館などに良くある電話受話器型の解説機械に日本語版があった。解説機械を借りる人は多く、皆が電話をかけながら歩いているようでおかしかった。
ストーンヘンジ内で妙な儀式をしたり、更には落書きしたりする輩が絶えないので、ロープを張って監視員とセンサーを張り巡らし、ストーンヘンジ
中枢部への立ち入りは厳重に禁止である。
予想外に複雑な建造物で、列石以外にも回りに意味ありげな石が据えてあり、いかにも古代の聖地らしい雰囲気を醸している。
周囲は四方地平線のなだらかな起伏の大平原で、有名な列石以外にも似た建造物が散在するらしい。










スワンホテルの屋外テーブルでディナー。
これで午後7時頃であろうか、まともな西日で恐ろしくまぶしいディナーであった。
ウェイトレスのお姉さんは赤毛/色白/大柄の典型的イングランド女性である。
定番で、鱒の料理など。

BBの脇にて。バーもやっている石造り(と見えた)の古いがきれいな建物であるが、部屋の窓があにはからんや非常に小さかった。
朝、駐車場で日本人母娘に会った。ロンドンに語学留学中の娘さんに会いに来たという母娘連れで、お母さんの運転によりレンタカードライブ中との
事であった。右ハンドルなのに、ワイパーと方向指示器が逆で、とぼやいていた。でもなかなか行動派のお母さんである。
ボートン・オン・ウォーター
村の真ん中をきれいな小川が流れている。別に何があるというのでなく、その水と『蜂蜜色』の風景を眺めるのみである。
村の一角に村の9分の1ミニチュア村がある。非常に良くできていて、ボートン・オン・ウォーターの町並みの概念把握に役立つ位である。
ミニチュアの中に、またミニチュア村がある。さらにそのミニチュア村の中に・・・・・。


ストウ オン ザ ウオルド
かっての家畜売買の大集散地も今は『蜂蜜色』を求める観光客で埋まる。
みやげ物やでリリパットを見ていたら、おかみさんが、隣のバーフォードと言う町にある家がモデルだという一品を勧めてくれた。

バーフォード
というわけで、丘の上の町ストウから気持ちの良いスカイラインを走る道路でやや低地にあるバーフォードへモデルの家を探しに行く。
結構大きな街道の町だった。

バーフォードの街道と家並

リリパットのモデルの家は町のほぼ真ん中にあり、リリパットでは瀬戸物屋であるが、実際には洋品店であった。
ストウのおかみさんの話だと、リリパットには皆モデルの家と云うのが実在して、それを調べて回って歩く趣味というのもあるそうである。
リリパットは初めて見た時から気に入っていて、『秘密の花園』(写真上右)などという超大物を含めて何軒か持っているのであるが、
モデルの家と云うのを見るのは初めてで、興味津津であった。二階の出窓、ショウウィンドウや入り口の柱など特徴をうまく捉えている。
チッピング カムデン
バイブリーと並んでコッツウォールズを代表する村である。バイブリーよりずっと大きな村で景色というより建物に特徴がある。

村の外れにあった大きなお屋敷(マナー・ハウス)。思わず車を止めて写真を撮りたくなるくらい立派である。
窓が非常に大きいのはイングランドが高緯度でかつ
温和な気候である証拠で太陽の恵みを家の中まで取り入れるためである。
大きな窓の家は同じような気候条件のオランダなどでも見られる。これが北欧に行くと
寒さと戦う必要があるので開口部は小さくなるし、南欧に行っても今度は夏の暑さ対策で開口部が小さくなる。
真ん中のフランスくらいでも家具が傷む、風に当たるのは体に悪い伝説等で、風と太陽光を家の中に入れるのを嫌い、窓は大きくなく、
その窓もカーテンも常に閉めておくものである。
日本人は天気さえ良ければ窓とカーテンを開けたがるので、家を清潔に使い、家賃も滞らないとして好評の日本人店子もこの点だけは嫌われる。
ジェームズ夫人のBBに泊る。短パンTシャツの長身のご婦人が現れた。ハイストリートという住所の通り、メインの通りに面した玄関で交渉成立後、
鍵を貰って裏通りに回り、フェンスを開けてBBの裏庭に入って駐車し、ジェームズ夫人丹精の庭を歩いてお部屋に入る仕掛け。
英国らしく、広大なバックヤードで完全に農家の裏庭の雰囲気である。夫人は陶芸家であるとの事でアトリエとその種の道具材料が並んでいた。

チッピング・カムデン散策。

これも村外れにあったお屋敷。蔦が絡まって、何やら怪しげ。難事件が起きてベーカーストリート221Bの
シャーロック・ホームズに依頼のため馬車が走り出しそうである。
こうしたお屋敷の富を支えたのは農業であろうというのは辺りを見回せば容易に想像できる。
アーサー王やロビンフッドの時代には森林に
覆われていたイングランドは、その後温和な気候となだらかな起伏がどこまでも広がると土地という農業に理想的な条件下、
森林は刈り尽くされ、全面的に耕地と牧場にされてしまったのである。
従ってイングランドの風景というのは徹底的に人工的なものである。それを『美しい田園風景』と呼ぶのであるが、人工的で
真平らなイングランドの
景色は嫌いだ、自然が残っていて起伏もあるスコットランドの方が好きだという人も多い。

見事なわらぶきの家並み。人が住んでいるがいくらなんでも観光用に(どこかの援助を受けて)維持しているものであろう。
実物大のリリパットと言う風情で、屋根の棟部分のフィニッシュなど素晴らしい。英国にはまだこんな事ができる職人がいるのかと感動的ですらある。
私の生家は藁葺きであった。屋根の厚さはトータル約30センチで、下側20センチくらいを麦藁、上側10センチくらいを茅で葺いてあった。
最後の葺き替えは中学卒業の春で、近所では既に藁葺きは絶滅しており、材料の茅を集める茅山の親方も、屋根葺き職人さんもこれが最後の仕事になる
だろうという大規模葺き替えであった。高校受験が終わった私も葺き替えを手伝った。

前年秋の竹の旬に切っておいた真竹と荒縄で屋根の骨組みを
つくり、その屋根にまず茅を一層、続いて麦藁を20センチ程、続いて茅を10センチ程敷き、1メートルはあろうかと言う巨大な針
(ミシン針と同じく先端に糸穴がある)と銅線で竹の骨組みに縫い付けて行く。少年の持ち場は屋根裏で、職人さんが突き刺して来る針から銅線を外し、
骨組みに回してまた穴に通すのが任務であった。これは屋根の下の薄暗い中に組んだ足場の上、という高所でかつ狭いところを駆け回る作業なので
かつては下働きの小僧の担当であったが、既にそんな者はいない時期、身が軽くて柔軟な動きが出来る少年しかできない重大な仕事で、
屋根の上にいる複数の職人さん相手に屋根の上下、視界ゼロの中で息を合わせないと狭い所で刺し殺されるか、指を銅線で千切られかねない危険な
仕事でもあった。実際針が凄い勢いで藁の層を貫いて顔の脇5センチに飛び出して来るし、少年の合図で力いっぱい
引き上げられる針にかかった銅線で骨組みの竹がきしむのである。縫い付けた最外側の茅は植木鋏で丁寧に表面を平らに刈り込まれる。
凸凹があると雨漏りの原因になるのでそれは見事に平らに
仕上げられる、職人は午前中の非常な時間を挟みを研ぐのに費やすのである。さらに棟の部分や端っこの仕上げは、職人さんの腕と芸術性の見せ所である。
メインストリート=ハイストリートの家

村の象徴のマーケット・ホール

17世紀のスーパー・マーケット。
チッピングというのは古い英語で市場の意味だそうである。
BBには当然夕食はないので、村のパブで夕食。パイント・ギネス(ギネスはアイルランドの麦酒であるが)なども試みる。

パブリック・フット・パス
翌朝、イングランドの朝の楽しみなんだから絶対行け、朝食はその後だ、とジェームズ夫人が強力に勧めてくれ、半ば追い出されて
パブリック・フット・パスの散歩に出る。


パブリック・フット・パスは、その名の通り私有地の中に公開されている散歩道で、歩いて良い小道は指定されており、
ハイキング・コースのように案内も出ている。羊さんの牧場の中を通る際は柵を自分で開いて入り、出口ではちゃんと閉める。
この扉のロック機構は牧場によってそれぞれで面白いが、いずれももし羊さんに知恵がついたなら、俺たちは人間にここまで
馬鹿にされていたんだ、と怒り狂いそうな簡単なしかけである。
しかし、この後間もなく、イングランド全土で口蹄疫騒ぎが始まり、観光客が病菌を運ぶのを防ぐためパブリック・フット・パスは
閉鎖されてしまった。
更に狂牛病恐慌が勃発、日本では厚生省のお達しにより、ある時期の英国については観光で1日滞在しただけでも狂牛病に汚染されていると
認定され、献血や臓器提供を拒否される。
この厚生労働省が世界一厳格と誇る狂牛病汚染認定基準は、滞在国と時期で異なるが現在でも生きており、心配な方はウェブサイトなどで
確認される事をお勧めする。かくいう私も勿論狂牛病汚染認定者である。しかし、我が祖国日本はこうして汚染者を指定しながら発症予防等に
手を打ってくれている気配は全く無いのである。
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ストラットフォード・アポン・エイボン
ご存知、シェークスピア生誕の地である。
この町では、車は観光客用駐車場に置いて、ガイド付きの市内ツアー・バスに乗って観光するのが基本である。コッツウオールズの主だった村には
観光客用の駐車場があるが、ここのは一際立派で広かった。
バスは二階建てで、折り良く(?)、凄い婆さんのガイドのバスに当たった。町の名前の語尾に***ボロー、***バーグ、***ブルグ、などと
付くのはその語源は同じで、これこれと言った説明があり、そうか・・とその時は感心したがすぐ忘れてしまった。ある程度格式がないと
名乗れない戒名で云えば院号のようなものであるらしい。
シェークスピアの生家前。

1564年4月23日、シェークスピア商会の長男ウィリアムここに生まれる。
ちなみにシェークスピアという姓は今でもちゃんとあって、私もシェークスピアさんという女性に会った事がある。
他に有名人(?)では、アラン・フォークナーさんという作家と同姓同名の人、ドイツではフォン・クライストという戦史上有名な
将軍と同じ姓の人(これは貴族の姓であるのでどこの馬の骨のクライストである訳がなく、クライスト将軍の縁者であろう)に会った。
アイルランドで漱石の英語の先生であったクレイグ先生と同姓の
人に会った時には、思わず100年前の先祖がロンドンで東洋人の留学生に英語を教えたと言うような事は無いかと聞いてしまった。
ロンドンの南の町でキャラハンさんに会ったが、彼の従兄がカリフォルニアで警官をしているかどうかは定かでない。
アルザスの工場でも、女性人事部長は高名なピアニストと同じケンプさんで、製造部長はフランス本土人のラマーズさんだった。

バスからのストラットフォード・アポン・エイボンの町並み。
アン・ハサウェイ・ハウス

ウィリアム・シェークスピアの妻、アン・ハサウェイの実家。16世紀の農家の面影を残す建物だそうである。
芸術的な藁葺き屋根。中は2階建で、二階も含めた見学コースがセットされている。
日本人の修学旅行らしい高校生くらいの団体と一緒になった。

町と駐車場の間にある公園。運河が走っていて、いわゆるナロー・ボートが何隻かおり、閘門式運河の水門の通過儀式も見られた。
ナロー・ボートには勿論オーナー船というのもあるであろうが、家具付きで一週間貸しというようなレンタル船も多いのだという。
皇太子殿下のオックスフォード留学中のご研究テーマのように、イングランドはテムズ河といわず、内陸水路が網の目のように
発達しているので、家族連れでレンタル・ボートに乗ってこれを辿る、というバカンスの過ごし方も庶民の選択肢としてあるらしい。


閘門式の運河のドア(?)の操作。ハンドルを回すとギヤとチェーンで運河のドアが上下する。
ハンドルは船の中から持参し、操作が終わると外して持ち帰る。見ていると、家族連れのボートの場合のこの操作はキャンプや
バーベキューの料理番とは逆に女子供の役目のようである。
