アルバート・シュバイツァー

 密林の聖者、アルバート・シュバイツアー(Albert Schweitzer)は1875年、普仏戦争と第一次世界大戦の間のドイツ時代のアルザスの生まれである。
 シュバイツァーというドイツっぽい響きの名前で、何故フランス領西アフリカ・ガボンが彼の活動拠点であったのか?と言う疑問も、 彼がアルザス人ということが判れば氷解する。彼の妻もアルザス人で、アルバート・シュバイツァーは生粋のアルザシアンである。

 アルバート・シュバイツァーの日本への紹介は古く、戦前からその存在は知られていたというが、戦前とは言え当然アルザスはフランス時代で、 日本への紹介がアルベール・シュワゼール(というような感じの)フランス語読みでなかったのは、当時の同盟国ドイツの存在の所為かと思われる。
 生家はカイザースベルグの教会で、 現在は記念博物館になっている。父が神職者だったシュバイツァー家はアルバートが幼い頃、同じアルザスのマンステール近くの村に移り、 アルバートは初期教育をこの村とマンステールで、高等教育をストラスブールで受けた。
 この時代のアルザスは、日本でだけ有名でアルザス人も知らないところのドーデーの『最後の授業』で描かれるように公用語はドイツ語である。 しかしながら『最後の授業』には記述されていないが、1870年以前の一般アルザス人の言語はアルザス語であり、アルザス語はドイツ語の アルファベットを使って記述されていた。勿論、1870年までは中央(パリ)から半ばほったらかされたとはいえ、三十年戦争以降200年間 フランス領であったから、彼の誕生の5年前まで公用語はフランス語であった。但し、フランス中央がアルザスのフランス化に本腰をいれ、 初等学校教育でフランス語による教育を徹底し始めたのは1915年以降、第一次世界大戦後のことであったから、アルベール・シュワゼール少年は ドイツ語とアルザス語でアルバート・シュバイツァーとして育ち教育されたに違いないが、彼はフランス語も他の二つの言語と優劣なしに 使いこなす事ができた。

 最初に学んだのは神学と哲学、続いて音楽で、特にバッハの研究では、ドイツ語文献を自由に 読みこなせた故に彼のフランス語の論文はフランスのバッハ研究の基礎に多大な貢献をなしたという。 メンデルスゾーンによるバッハ復活から70年余りしか経っていないこの時代、今日のバッハ観から当時のバッハ研究の難易度を計ってはならない。

 医学を学び始めたのは神学、哲学と音楽を修めた後30歳からで、子供頃からの信念である 『30歳からは他人の為になる事をする』のに最も適した職業は医者であると考えたからだと言われている。 さらにアフリカへの執着も同じ信念からと言われている。
 従って彼は医学研究者ではなく、徹底した臨床医で、アフリカでもひたすら診療に尽くした。彼は、アルザス語、ドイツ語、フランス語を順序なしに 完全に出来たが、英語は彼がアフリカに渡ってから会話中心に習得したと伝えられている。英語が(やや)苦手だったシュバイツァー博士というのは 彼も人間だったと安心させられるエピソードである。
 彼の国籍はドイツ-フランス-ドイツ-フランスと変わっており、二度の戦争でアルザス人らしくこの国籍ゆえに翻弄されている。
シュバイツァーという姓はアルザス独特、かつ多くは無いが特殊ではないとの事で、当然今でもシュバイツァーさんというのは結構おり、カルロス・ゴーン が取って代わろうと言うルノーグループの現CEOのルイ・シュバイツアーさんはシュバイツァー博士も属する一族の出身であるが、 日本で自らをシュバイツァーとドイツ語風に発音されるのは嫌なのだそうである。

最後の授業

 かって国語の教科書に載っていた時代があり、日本では誰でも知っていて、アルザスのシンボルのような物語とされているが、私が直接確かめた10人 余りの『アルザス人』は誰もこの物語の事を知らなかった。勿論作者のドーデーはフランス人(アルザス人)なら誰でも知っている作家である。
 インタビューしたアルザス人が例外なくドーデーの代表作(?)として挙げたのは『風車小屋だより』の中の『スガンさんの雌山羊』でこれはなんと 国語の教科書にあるかららしい。
 人間に飼われる事を嫌って山に逃げ、自由を謳歌していた若い雌山羊が、ある日(人間に守って貰えない故に)抵抗空しく 狼に食われてしまうというストーリーである。なかなか意味深長なお話である。






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