
アルザス南部、高地ライン県の都市ミュールーズ郊外には自動車博物館、鉄道博物館、壁紙博物館といったユニークな博物館がある。
中でもフランス国立自動車博物館は、常時展示500台以上という世界最大の自動車博物館で、特にブガッティの50台以上に及ぶコレクションは
圧巻である。
このコレクションの元はここにあった紡績会社のオーナーの個人コレクションで、オーナー一族の倒産により散逸の危機にさらされたが、
それを救ったのはフランス共和国による一括買い上げ国営博物館化という荒業であった。
これは想像であるが、コレクションはコレクターの趣味で、アルザスにあったブガッティ社の車から始まったと思われる。
ブガッティ社は、ミュールーズから北に約80Km、ストラスブールの西にあるモーレンハイムという小さな町にあった(1998年に再建されている)。
自動車博物館のネクタイ。
デザインは私の元同僚H君の父上の手による。




ブガッティのロイヤル・ナポレオンがカジュアル車なのに対して、此方は自動車の歴史の中で最もフォーマルな車であると断言できる。
V型8気筒7655CC、最高時速160Km、燃費100Km/60リッター。
王侯貴族か超金持ち専用車であり、この博物館では770Kのユーザー代表としてHIROHITOの名を上げているが、
1932年から1968年まで36年間に亘って昭和天皇の御料車を勤めたのはおそらくこの展示車の先代型であろう。
御料車の770Kは2台で、敗戦にあえぐ日本国民を元気付ける為に行われた全国巡幸に使われたのも勿論770Kである。
現在1台はダイムラー・ベンツ社に寄付されたが、1台は依然として皇室所有である。



羽ばたくこうのとり
イスパノ社はその名の通りスペインのメーカーで、ロールスロイス、ダイムラー・ベンツ、BMWなどと同じく航空機用エンジンの名門である。
その技術は日本のメーカーに技術供与するほどで、メッサーシュミットBf109を自社エンジンに換装した機体は戦後も長くフライアブルのBf109として
映画などで活躍した。
写真右の展示はお金持ちの家の庭先という感じの実物ジオラマである。

ロールス・ロイス・シルバーゴースト
フライング・レディ
赤いRRのエンブレムは、ロールスとロイスの両人が生存中の製造である事を示している。
ロールス・ロイスの本職も航空機用エンジンのメーカーで、飛行機の黎明期から推力20トンクラスの超大型タービンエンジンまで
100年間連綿と航空機エンジンを生産し続けている。その歴史の中には、英国を救ったマーリン、垂直離着陸用推力変向エンジンのペガサス、
倒産とロッキード事件の引き金になったRB211などが並ぶ。

マイバッハ・ツェッペリン
ドイツ/スイス国境にある西ヨーロッパ最大の湖、ボーデン湖畔の町、フリードリッヒスハッフェンのツェッペリン飛行船会社の名前と共に
あるエンジンメーカーで、ツェッペリン飛行船に大型のガソリンエンジンを供給した。
この会社はドイツ第三帝国の戦争遂行に多大な貢献をした会社で、電撃戦の主役である戦車のエンジンは殆ど全部マイバッハ製であった。
逆に、燃料大喰らいですぐ火が点くというドイツ戦車の欠点もマイバッハの大型ガソリンエンジンの特徴である。
現在もダイムラー・ベンツ傘下でニューマネー好みの物凄く威圧的な車を作っているが、1930年代も超高級車メーカーであった。


メルセデス 300SLR
1955年のスポーツカーレース総合コンストラクターチャンピオンカーであるが、いわば第二次大戦後第一期メルセデスレーサーの最後の一台である。
直列8気筒3000CCデスモドローミック機構エンジンは前年のフォーミュラー1のもので、300SLRは複座のフォーミュラー1であるといわれた。
説明書きには1955年のル・マン24時間に参加、とさりげなく書いてあるが、この車の姉妹車はレース中突然減速した前車に乗り上げて空中に舞い上がりながら
爆発、観客席に飛び込んでドライバーと観客80人余りが死ぬというレース史上最大の事故を起こしている。
事故後7時間余り経って、ダイムラーベンツ本社は1位と3位を走っていた2台をリタイヤさせ、ル・マンとモーターレース
そのものから引き上げるという決定をする。次にワークスチームのメルセデスレーサーがサーキットに戻って来たのは33年後の1988年だった。
300SLRはガルウィングの市販スポーツカー300SLとそっくりであるが、それも当然、300SLと300SLRは両親を同じW196としている兄弟車である。
市販車初の燃料噴射エンジン搭載の300SLも過激な車で、多くのドライバーを殺したと伝えられる。

パナールCD
これは総合優勝車ではなく、1962年の性能指数賞獲得車である。性能指数=24時間の走行距離が排気量とから算出される。
この時の24時間の走行距離は3427Kmで総合16位(出走55台、完走18台)。
グラスファイバーボディ、空冷水平対抗702cc50馬力で、直線では200Km/hが可能だった。丁度トヨタスポーツ800のような感じの車である。
黒地に白の1347W68というのは一昔前のフランスの公式のナンバーで、ミュールーズがある高地ライン県の登録である。即ち、
この車はこのまま公道を走れるわけである。トランスミッションのギヤ比にもよるが運転はそんなに難しくないであろう。
この時代のレーシングカーには公道を走れるナンバーを取得している車は珍しくなかった。後にカリフォルニアでポルシェ917で公道ライセンス
を取得するという試みがあったに聞く。

ポルシェ936/81
ポルシェ使いの名手、ジャッキー・イクスとデレク・ベル組のドライブで1976年の総合優勝を果たした車である。
空冷水平6気筒2140CCターボチャージで540馬力。ポルシェにしてみればレーシングカーとして全く無理をしてない手堅い設計で、
まさにルマンで勝つ為の車と言える。実際5年間に亘ってワークスチームから参戦し優勝3回、2位2回を獲得している。
コックピット背後の大きな空気取り入れ口はエンジンの空気取り入れかと思うとさに非ず、なんとインタークーラーの冷却空気取り入れ口だという。
Jules(ジュール)というのは、スポンサーの男性用化粧品なのだそうである。
綺麗な車で実際にル・マンを制した事もあって、この車のモデルカーは人気があるようである。

今でこそイタリアンレーシングレッドはフェラーリの専売特許になってしまったが、戦前から1960年くらいまでにこの衣装で、メルセデスのシルバー・アロー
軍団やアウト・ウニオンに対抗して華やかにサーキットや公道レースで活躍したのはマセラティ、アルファロメオ、フィアットであった。


メルセデスW125
ヒトラーの第三帝国の威信をかけたシルバー・アロー、メルセデスレーサー物語の集大成である。1937年に11レース中7レースに勝ったとある。
勿論、ドライバーもドイツ人で固め、エースドライバーのルドルフ・カラチオラはヒトラーのお気に入りだった。
メカニカル・スーパーチャージャー付き直列8気筒5660CCで過給時は600馬力を発生した。
600馬力というグランプリレーサーはずっと時代を下ってターボエンジン(1500CC)で1980年代、NAエンジン(3000CC)では1990年代半ばまで現れなかった。
しかし、このタイヤで600馬力を支え、コーナーで踏ん張れと言ってもそれは無理というもの、この時代のコナーリングはスピードもギヤも落とさずにコーナーに
車を放り込み四輪ドリフトさせて回るのが常だった。

ロータス33
1962年コーリン・チャップマンは、モノコックボディ/ミッドシップエンジン/フロントラジエターのロータス25をサーキットに送り出した。
以降1970年にやはりチャップマンのロータス72によって、サイドラジエター/ウェッジシェイプが確立されるまでモノコックボディ/ミッドシップエンジン/フロントラジエターは
F-1のみならず、レーシングマシンの定番になった。
独創が好きで、レーシングマシンのあらゆる定石を嫌った本田宗一郎も、RA271に始まるホンダF-1の基本レイアウトは、ロータス25と同じにせざるを得なかった。
このロータス33は1963年シーズン半ばに登場した25の次のモデルであるが、エースのジム・クラークは25に乗り続け、
10戦中勝利7回うちポールポジションからの勝利5回という圧勝でシーズンを終わらせた。
翌1964年もロータスの主戦は25のままで、この年は
シーズン後半にフェラーリのV8エンジンが猛威を奮い、フェラーリ158に乗ったジョン・サーティスが追い込んでコンストラクターとドライバーの
両方のチャンピオンをさらって行った。
ロータス33がチーム・ロータスの主戦になったのは1965年でこの年10戦中5勝している。翌1966年はF-1のレギュレーションが変わり、エンジンが3000CC
になった為、33の出番は無くなった。

コベントリー・クライマックス
1961年から1965年のフォーミュラ1のエンジンは1500CC過給無しであった。
このレギュレーションで最も成功したエンジンはコベントリー・クライマックス社のV8エンジンであろう。
クライマックス社は消防ポンプエンジンメーカーで、消防ポンプエンジンは軽量小型でかつ運転時はスロットル全開が原則なので
レーシングエンジンに向いていると言われていたのであるが、この時代だけフォーミュラ1の檜舞台に踊り出て、
ロータスのみならず複数のボディコンストラクターにエンジンを供給したコベントリー・クライマックスと言う会社は古〜いF-1ファンには懐かしい。
8本並んだ吸気管は1963年なら燃料噴射ポンプで無く、古典的はキャブレターにつながっていた筈である。後ろに突き出した2本の集合排気管
は1960年代前半のフォーミュラ1の特徴で、この車はエンジンがカウルで覆われているが、実戦の中でオーバーヒート防止の為エンジンをむき出しにするのが普通に
なって行った。これをボトムレス・ルックと呼んだ。
それにしても、LOTUS CLIMAX 33 (ロータス・クライマックス ダブル・スリー) F-1グランプリレーサーとしてなんと素晴らしい名前である事か!!。

フェラーリ156
モーターレース界の名門フェラーリは、F-1についても第二次大戦直後からエンジンとボディをセットで自製するフルカーで参戦し続けている。
フェラーリ156は1961年には活躍したが、1962年は鳴かず飛ばずであったので、1963年というこの展示車がカーナンバー1を付けて居る事については
やや疑問がある。1963年はフェラーリ156、6気筒V6の最後のシーズンであったが、前述のように近代レーシングマシンの走狗ロータス25の圧勝のシーズンで
フェラーリ156はジョン・サーティスのドライブで1勝しかしていない。この車はその直後の姿かもしれない。
翌1964年には、V8エンジンのフェラーリ158がチャンピオンカーになっている。

フェラーリ312B
フェラーリ312と言う型番は1970年代の3000CC過給無しの時代を通じて使われた名前で、312の後のサフィックスで投入年を区別する。
312Bは1970年と71年に投入されたモデルで、水平対抗12気筒アルミシリンダーヘッドDOHC、2991CC
470馬力/12500rpm、ジャッキー・イクス(ドイツ人)とクレイ・レガツォーニ(スイス人)により、1970年と1971年のレースシーズンに参戦した。
ニッキ・ラウダが伝説のクラッシュ火災を起こしたのはこの5年後の1976年312T2、
ジル・ビルニューブの富士スピードウェイでのロニー・ピーターソンのティレル6輪車への追突事故は1977年の312T2である。